名古屋工業大学建築学科(現、建築・デザイン分野)は、東京帝国大学に次ぐ我が国二番目の官立の建築学の高等教育機関として、1905年(明治38)9月に創立されて以来、本年で満100年を迎えた。この間の教育体制は、その折々の社会背景を反映しつつ幾多の変容を遂げて今日に至っているのであるが、本校で教育を受けた卒業生の多数が、産官学の幅広い分野において、近代日本の建築文化や建築学の発展に大きく貢献してきている。その貴重な軌跡を、100年という大きな節目にあたる2005年、草創期の恩師や卒業生の作品や諸資料に触れながら顧みる展示会を、名古屋(5月28日~6月12日)および東京(9月21日~26日)で開催し、予想をはるかに上回る好評を博した。
ここでは、その展示会で紹介した人物の履歴を中心に触れながら、「100年の歩み」の一端をたどることとしたい。
鈴木禎次の教育
1905年3月28日、勅令第98号によって設置された名古屋高等工業学校(以下「名高工」と略す)は、同年9月1日、第1回入学式を挙行し授業を開始した。建築科第1回の入学生は定員の20名であったが、3年後の卒業時には16名に減じている。建築科最初の教官は、工学士中栄徹郎(東京帝大明治30年卒)講師で、翌1906年6月27日、欧州留学から帰国した工学士鈴木禎次(東京帝大明治29年卒)が建築科最初の教授として着任するまでの約1年間、建築科長を務め、1907年3月末日まで講師の職にあった。ほかに設立当初から安成一雄が助教授の職にあり(~1909年まで在職)、設計を教授していた。また、鈴木禎次が着任した翌年、後に科長・校長も務める土屋純一教授(東京帝大明治33年卒)が赴任し、主として歴史を教授し、同年赴任した坪井安次郎助教授(~1909年まで)が構造を担当していた。
おそらく教える方も手探りの、こうした学科創設時の教育を受けた卒業生で、設計や教育面での具体的な活動がある程度よく知られる人物を、次に掲げてみよう。
鈴川孫三郎、鈴木通、佃忠蔵、星野則保、桃井保憲(以上、明治41-第1回-卒)、岡田泰一、篠田進、鷹栖一英(以上、明治42-第2回-卒)、中村順平(明治43-第3回-卒)、加藤和夫、松田昌平(以上、明治44-第4回-卒)
このうち、佃忠蔵(1909~1912、構造)、桃井保憲(1912~1913、設計)、鷹栖一英(1921~1939、設計)は、卒業した後、長短はあるが母校で教鞭をとっている。とくに鷹栖一英は、鈴木禎次が名高工を退官した後の設計教育の継承者として重要な存在であった。
教官・学生双方が、新鮮な気概をもって教育を授受しているこの頃、学生から見た教育はいかなる印象として残っているのか、第2回卒の篠田進の言葉がよく伝える。
「私の入学した時は中栄徹郎先生が建築科長で大変温厚な無口の先生でした。その後洋行帰りの鈴木禎次先生がこられ、この先生から多くの教訓を公私ともに受けた。先生の教授はすこぶる雄弁で面白く、巧みに講義をせられ、気げんがよければ時間も構わず講義をつづけ、我々生徒はノートするのに汗をながし、少しも油断することができなかった。先生はこのノートの検定によって採点をし、決して試験は行わなかった先生はルネッサンス式を好まれデザインも得意で、製図教授に対してはなかなか厳格でした。生徒に対しては好き嫌いが激しく、好まない生徒の作品は見向きもせず、優秀な製図は廊下に展示されたが、私はこの廊下組でした。(中略)・・土屋純一先生は古建築の大家、殊に貴公子式で奈良から赴任されたが土屋先生の教授に対しては逸話は見出せない。また安成先生にも教授されたが、明治時代の教育や先生の変っていた事といえば、礼儀正しく、規律厳格で上、下の座もやかましかったことなどです。」(篠田進著『八十歳をすごして』-1967年-より)
鈴木禎次の教授の印象は、赴任当初から強烈であった。鈴木禎次の教授方針については、松田軍平(大正7-第11回-卒)も次のように語っている。
「・・その時の建築科長は鈴木禎次先生で随分厳しい薫陶を受けた。フランス流の建築家を作る教育とでもいうのか、「君等が教わっている総ての学科は、終局において設計に集結される。立派な建築家になる野心を持って努力せよ」
と。・・設計の問題が出ると、徹夜しても基本設計図を作って先生の承認を得ないと始められないという厳しさで、高等工業学校といっても建築科の教育は全然土木や機械科と異なった教育によって三年間を過ごした。・・」(『松田軍平〔回顧録〕-1887年-』より)
要するに、鈴木科長の教育目的は、技術者養成ではなく建築家養成であり、彼の薫陶を受けた卒業生の多くは、後述するように建築家としての道を歩んだのである。
鈴木禎次は、1870年(明治3)に静岡で生まれる。1896年(明治29)に帝国大学工科大学造家学科を卒業した後、大学院に残り鉄骨構造の研究をするが、先輩の横河民輔に誘われ三井臨時建築係となる。横河を補佐し三井総本店(1902)を設計。その後、三井銀行大阪支店(1901)、北浜銀行本店(1904)の設計を担当。1903年(明治36)欧州留学へ出発、イギリス・フランス・北欧をまわり、1906年に帰国。フランス新古典主義建築を直接体得した唯一の日本人であると言われている。帰国後、名高工建築科教授に着任。自ら退官する1921年(大正10)までの15年間、建築科長も務めた。退官後も、1927年(昭和2)まで講師として教壇に立ち、建築衛生、施工法を講義した。建築家養成を目的とする厳しい指導のかたわら、実務設計にも力を注ぎ、いとう呉服店(後の松坂屋百貨店、1910)・鶴舞公園噴水塔・奏楽堂(1910)など、数々の名建築を残した。退官後は鈴木建築事務所を名古屋で創立、名古屋商工会議所(1923)・名古屋松坂屋(1925)など、膨大な数の作品を残した。なお鈴木は夏目漱石の義弟であり、漱石の墓も設計している。1924年には、卒業生によって名古屋高等工業学校構内に記念柱が建立された。晩年東京に居を移した後も、来名し設計顧問として活動していたが、1941年出張中の名古屋で没した。
鈴木禎次と教え子のかかわり
鈴木禎次が名高工に赴任して、最初に設計した建物は、第10回関西府県連合共進会会場につくられた1910年竣工の鶴舞公園の噴水塔と奏楽堂、愛知県商品陳列館などであるが、これには、名高工建築科第1回卒業生の鈴川孫三郎(噴水塔)、桃井保憲(奏楽堂)、星野則保(愛知県商品陳列館)が設計協力している。鈴木通は、田村組に就職しており、噴水塔の現場主任であった。第1回卒では他に佃忠蔵(北浜銀行名古屋支店-大正4年-)の、構造面での協力が知られる。第2回卒では岡田泰一が、桃井保憲とともに、三井銀行名古屋支店(大正2年)を担当している。同期の篠田進も、在学中に図面を手伝わされており、卒業直後は名古屋開府三百年記念事業局に就職し、噴水塔・奏楽堂の現寸図作製や現場監督を担当している。名古屋最初の鉄骨鉄筋コンクリート造の共同火災名古屋支店(大正2年)では、第4回卒の加藤和夫が協力している。参考書が不十分で、職工が全然初めてのため、鉄筋や堰板の組み立てなどに相当な苦心を要した。鈴木禎次は基本設計の部分を自分がやり、製図そのものは教え子にまかせたようである。桃井保憲・星野則保・岡田泰一・篠田進らは、のちに独立して事務所を構える。
鈴木禎次は、名高工在職時には、学校の製図室や講堂の一隅を事務所代わりにしていたが、1921(大正10)年に学校を辞すると正式に建築事務所を設立する。事務所設立以前から半分所員のように手伝っていたのは、桃井保憲・岡田泰一・坂野鋭男(大正4-第8回-卒)・島武頼三(大正5-第9回-卒)・佐藤三郎(大正7-第11回-卒)らであるが、島武頼三と佐藤三郎は、事務所設立後も正所員として参加している。その他、多数の教え子が鈴木禎次の仕事の設計や施工にかかわった。
名高工卒の建築家たち
鈴木禎次の設計教育を受けた卒業生には、ここまで述べたように、鈴木禎次の設計活動とその実務に直接かかわる仕事に就く人が多数あったが、その後、あるいは卒業後、さらに自らの研鑽を積んで、戦後も続く著名な建築設計事務所を開設した建築家や、教育や行政の場にあって建築家としての活動を進めた人などが多数存在した。その一部を、ほぼ卒業した順に、履歴・作品を中心にふれていく。
前述の篠田進は、名古屋市岩塚の出身であるが、父の勤務の関係で、1886年(明治19)、北海道で生まれる。明倫中学(現、明和高校)を経て、名高工を1909年(明治42)に卒業。卒業後、鶴舞公園で開催された府県連合共進会の噴水塔と奏楽堂の現場監督を担当する。翌1911年、鈴木禎次の推挙で設楽建築事務所(神戸市)に就職、大阪天王寺新世界新築(1912年)や千日前楽天地建築(1913年)の設計監理を担当する。篠田は、この設楽建築事務所時代に実務設計の多くを学んだという。1914年(大正3)に、名古屋の志水建築業店に入社し、名古屋商工会議所など鈴木禎次の設計したものの現場監督を担当している。志水建築業店の仕事
以外に、篠田個人に依頼される仕事も勤務に差し支えない程度にやらせてもらうのが就職の条件であった。旧鳴海球場(1927年、現名鉄自動車学校)も篠田の設計という。恩師では鈴木の他に土屋純一が設計し篠田が製図監督をした名古屋能楽堂(1931年)がある。志水建築業店関連では、日本陶磁器会館(1934年)、名鉄本宿駅(1934年)、御園座(1935年)などを設計。日本陶磁器会館では、設計計画をした篠田以外に、同店勤務の三島四平(名高工、大正14-第18回-卒)が強度計算を担当し、工事監督を三島と同期の大脇勲が愛知県営繕課主任として担当していた。
御園座完成を機会に、1935年(昭和10)篠田進建築設計事務所を開設。名鉄一ツ木駅や万常紙店本店、新舞子舞子館(1937年)などを設計。舞子館浴室のタイルは武田五一(東京帝大明治30年卒-名高工第二代校長-)との合作という。戦後の1945年に、後輩の川口喜代枝(名高工、昭和6年-第24回-卒)と組み篠田川口建築事務所と改称し会長となり、戦後は、和風住宅や料亭建築が多く、その設計や監理にあたった。料亭河文復旧工事(1949~1952年)の玄関や主屋回りも篠田によるもので、昨年12月、国の有形文化財として登録された。若い頃より、計画・設計・監理・監督のすべてを体得した建築家といえ、鉄筋コンクリート造・木造、近代西洋式・和風など何でもこなしたが、晩年に近付いてからは和風を近代的に究めていったと考えられ、氏の描いた木造の現寸図や唐破風の割付図なども残存している。
設計活動の一方、大正初期結成以来の光鯱会(名古屋工業大学建築学科出身の同窓会)の会長職(1966年まで)、1951年、社団法人愛知建築士会を設立し会長職(1955年まで)、1952年、社団法人日本建築家協会東海支部を設立し支部長職(1956年まで)などの要職を務め、東海の建築界をリードするボス的存在であった。1980年、94歳で永眠する。
中村順平は、1887年に大阪市に生まれる。大阪市天王寺中学(現在の天王寺高校)を経て名古屋高等工業学校建築科に入学、1910年(明治43)に名高工を卒業する(第3回生)。鈴木禎次の秘蔵っ子といわれ、鈴木の斡旋で、卒業とともに、在学時から中村の将来を嘱望していた中條精一郎のいる曽禰・中條建築事務所に入る。大正博(1914)・如水会館(1919)で世に認められ、渡仏してアール・ヌーボーやゼツェッシオンを体験した後、1921年(大正10)にパリ国立最高美術学院(エコール・デ・ボザール)に2席で入学、1923年に卒業、ソルボンヌ大学日本館の設計を卒業制作として、もってフランス公認建築士(D.P.L.G)の称号を授与される。この卒業制作は、巴里大学街の日本学生会館として設計したもので、中庭池より見た
SALLE DE BAL(舞踏場)内景における添引運筆と日本画的描法は、春のサロンに展示され、コルビュジェをして、その達筆と構成に賞讃の声を放たしめたという。また、前川国男がコルビュジェの門戸をたたいたとき、「おまえの国には中村がいるのに何故私の所に来るのか」と問われたともいわれる。帰国後は、設計活動に携わるかたわら、建築士法制定運動に尽力していたが、1925年(大正14)に横浜高等工業学校建築学科(現横浜国立大学)が設置されるに伴い、同校建築学科主任教授となり、1947年(昭和22)に退官するまで教育に携わる。また、戦前の日本の大型商船の室内意匠にも腕を振るった。1957年、横浜文化賞受賞、1958年には日本芸術院会員に推される。
横高工における中村の教育は、建築技術者ではなく建築家を養成することを基本とした徹底したボザール教育であった。その教育理念は、横高工に着任したときに「建築学科に入学を志望する青年諸君へ」とした宣言文で明快である。すなわち「青年諸君、ここに述べる事柄を注意深く読んで折角入学しても、修学困難であり、国家または世界人類のために、無益とならないよう望む。・・」と建築家たらんとする素質の発見を呼びかけ、「建築は芸術である」と結んでいる。この一文は、時の日本の建築界の指向する権力に対する、ある種の決闘状ともとれる内容で、すでに発表されていた野田俊彦の『建築非芸術論』(1915年)があり、1923年には関東大震災が起こり、意匠よりも耐震・耐火の構造などの技術が重視されつつあった建築界の動向からは相反するものであった。しかし中村は、在職中、宣言文の初心を教育で貫き、それがために国からは冷遇されたといわれる。実力からして中村も相応にやるべきであったといわれる東京帝大の建物群も、帝大の内田翔三がすべて担当している。したがって、横高工在職中の中村による建築作品はほとんど見当たらない。中村順平の教育の成果の一端は、中村の薫陶を受けた学生の図面展「米寿記念-日本古典建築遺構建築図画展-」として、名古屋では1975年に開催されている。その2年後の1977年、90歳で永眠した。
松田昌平と軍平の兄弟は、ともに名高工を出た後、建築家としての道を歩んだ。松田昌平は、1889年(明治22)、三菱鉱業㈱鯰田炭鉱所長 松田武一郎の長男として福岡県に生まれる。松田家は、三河の士族の家柄で、武一郎は武士道的戒律が厳しかったという(後述、松田軍平の語)。福岡県立嘉穂中学校を経て、名高工を1911年(明治44)に卒業する。卒業後、南満洲鉄道㈱建築課に勤務した後、1919年(大正8)以前までに門司に松田建築事務所を開設。この頃の秀作として、旧門司三井倶楽部(1921年、重要文化財)がある。明治専門学校講師、日本ゴム㈱嘱託、福岡市嘱託を経て、1931年(昭和6)福岡市に松田建築事務所を移設。以後、九州を基盤に活躍、日本建築士会連合会副会長・福岡県建築士会会長・福岡市建築審査会会長をはじめ、日本建築学会・日本建築家協会の九州支部長なども歴任した、九州建築界のパイオニア。九州大学および九州産業大学の講師も務め、1968年からは共立大学工学部教授も勤めた。1959年黄綬褒章、1965年勲四等瑞宝章を受ける。
日本ゴム会社、ブリジストンタイヤ会社などの工場や厚生施設の建物を多数設計監理するほか、事務所、ホテル、学校、病院、デパート、住宅等あらゆる種類の建築設計監理に携わり、地域社会の中で一貫して民間建築家として従事した。また、『建築工事費のコストダウンをさぐる』(1971)などの著作もあり、工場建築などの合理的設計も探求した。温厚・高潔な人柄で話題が豊富、私心を殺して、士会・学会・家協会など、常に公の優先を考えて行動したといわれる。1976年、福岡県にて87歳で永眠。
松田軍平は、1894年(明治27)、松田武一郎の次男として福岡県に生まれる。兄昌平と同じ福岡県立嘉穂中学校に入学するも、父のアドバイスに従って、2年後、福岡県立福岡工業学校2学年に編入学、ここの実習で家具から木造住宅まで作り、作る前に道具の調整が必要であることを体験した。肺炎で1年休学し、1914年(大正3)同校を卒業する。兄と同じ名高工建築科を受験するが、工業学校で学んだため普通科目の勉強不足から失敗、無試験で入れた早稲田大学予科に一旦進む。しかし、それまで厳しい工業学校にいたせいか、あまりに呑気に感じられ、翌1915年、岡田信一郎が主任教授となって新設された東京美術学校(現、東京芸術大学)建築科と名高工を再び受験し、両校とも合格するが、入試結果が先に発表された名高工へ入学する。名高工では、鈴木禎次から建築家論をさかんに吹き込まれたが、後にコーネル大学で受けた教育を評して「・・アメリカの大学の建築教育は如何にしてよい建築家をつくるかが主目的で、その点、名古屋の学校で鈴木先生から受けた教育と同様であった。」と語っている。
1918年(大正7)名高工建築科を卒業(第11回)し、鈴木禎次の指示により、建築家田辺淳吉が技師長をしていた清水組設計部に入ったが、西洋事情を知らぬことの不条理を悟って渡米、1921年、日本の高等工業の卒業を認めてもらいコーネル大学建築学科3学年に入学した。点数が足らないと文句なく退校処分にされる厳しい大学であったが、言葉のハンデを負いながらも見事に乗り切り、1923年6月同学建築学科を卒業、「バチェラー・オブ・アーキテクチャー」の称号を受け、翌年コーネル大学から「クリフトン・ベックウイズ・ブラウン碑」(建築設計優秀賞)を受賞する。同年10月、ジョン・ラッセル・ポープ事務所に入所した後、翌1925年4月にトローブリッジ・リビングストン事務所に勤務。三井本館の設計に当たり、その現場監理のため1927年(昭和2)帰国。1931年東京赤坂に松田建築事務所を設立。所員の一人、坂本俊男(横高工卒、中村順平の教え子)は、翌年から入所していた。間もなくコーネルの後輩平田重雄を加え、1942年から松田・平田設計事務所となり、さらに1966年からは坂本俊男がパートナーとして加わり松田平田坂本設計事務所と改称した(2001年より松田平田設計)。
戦前の主要な作品に三井高修伊豆別邸(1932年)、石橋正二郎邸(1936年)があり、戦後はブリヂストン本社(1952年)、日本長期信用銀行本店(1961年)、住友銀行日比谷支店(1965年)、新橋西口ビル(1971年)、日銀本店増改築(1973年)など数多い。建築家の職能確立と建築事務所の在り方について、厳しい見識を持していた。
日本建築士会会長・日本建築家協会会長(1956年初代会長、1968年に再選)をはじめ、日本建築学会・日本建築士会連合会の理事や日本建築設計監理協会連合会会長など要職を歴任した。1958年には、日本人で初めて米国建築家協会名誉会員となっている。1958年藍綬褒章、1965年勲四等瑞宝章を受ける。1981年に享年86歳で永眠。
丹羽英二は、1897年(明治30)に名古屋市に生まれる。1919年(大正8)に名高工を卒業(第12回)。卒業後、静岡県の営繕係技手に、さらに翌1920年に、名古屋市建築課技手になるが、1922年には、名古屋の志水建設業店に変わる。丹羽英二が在職中、同店の上司に神戸から戻り自信のある仕事をこなしていた篠田進がおり、実務設計にかかわる手法や思想の影響を多少なりとも受けたものと思われる。1930年(昭和5年)に、篠田進に先んじて丹羽建築設計監督事務所を開設。この時に、一宮市役所(1930年)や下呂の湯之島館(1931年)、岩田武七商店(1933年)、水野村役場(1934年)、旧綜合共同販売所見本陳列館(1934年、現、瀬戸陶磁器会館)、横井吉助商店(1935年)、大門百貨店(1935年)、公立陶生病院(1936年)など多数を設計している。このうち湯之島館は、和風を主体にセセッションないしは表現主義の意匠を華やかに展開した秀逸な作品で、現在では下呂温泉を代表する近代化遺産となっている。
戦後の1947年、丹羽英二建築事務所と改称、1979年に代表取締役会長に就任した後、翌1980年82歳で永眠する。事務所の設計としては、名城大学天白校舎(1965年)、愛知学院大学日進学舎(1973年)、名古屋市鶴舞中央図書館(1985年)など枚挙に暇もない多数の作品がある。事務所ビル・工場・学校・庁舎・病院など幅広くこなす事務所であり、現在は、英二の子、丹羽一雅氏(名高工-昭23-第41回卒)が代表取締会長となり継承されている。
城戸武男は、1899年(明治32)、三重県阿山上野(現、上野市)において城戸操の長男として生まれる。県立第三中学校(現、上野高校)を経て、名高工建築科を1920年(大正9)に卒業(第13回)。卒業と同時に、竹中工務店に入社し、1927年(昭和2)に名古屋支店設計部主任となる。鈴木禎次の松坂屋本店(1924年)や名古屋公衆図書館(1924年)、森田病院(1927年)の設計を手伝うが、後の二作品では主として表現主義的な意匠を採用している。この時期に恩師鈴木禎次先生の直接薫陶を受け、それが制作への強い源泉になったと城戸武男は回顧している。自身の設計したものとしては、八重垣劇場(1930年)や名古屋株式取引所事務館(1931年)などがある。1927年には覚王山日泰寺鐘楼設計競技に応募し1等入選、1929年には名古屋市庁舎設計競技にも応募している。日泰寺鐘楼設計競技1等入選で松坂屋伊藤次郎左衛門に高く評価されたことが契機になり、1933年(昭和8)、城戸武男建築事務所を開設。戦前の代表作品として、瀬戸電小幡駅(1933年)、金城学院栄光館(基本設計は名高工教授の佐藤鑑、1936年)、八勝館大広間(1936年)、衆善館(1937年)などがある。このあたりの作品には、スパニッシュ風またはモダニズム的表現が取り入れられている。戦時中、一時中断するが戦後再開。戦後の作品としては、成田山名古屋別院本堂(1950年)、料亭つたや(1954年、59年)、岡崎城天守閣(1958年)、芭蕉翁記念館(1959年)、彦根城佐和口多聞櫓(1960年)、椙山女学園大学校舎(1961年)などがある。城戸武男は、戦前には表現主義とスパニッシュ風建築を取り入れたが、戦後は機能主義建築と和風建築に秀作を残している。また事務所としては城郭や寺院など日本伝統建築の新築や復元の作品も多数あるが、これらの基本設計には、「お城博士」として著名な実弟の城戸久(名高工昭和4年卒、名工大教授)の関与抜きには考えられない。城戸武男は、1980年、81歳で永眠。現在、城戸武男建築事務所は、武男の孫になる城戸康近氏(名工大大学院昭和57年修了)を代表取締役として、学校や住宅などを中心に手堅い設計をする設計事務所として継続している。
小尾嘉郎は、山梨県北巨摩郡甲村に長男として生まれる。山梨県立甲府中学校(現在の甲府第一高校)を経て、名高工建築科を1921年(大正10年)に卒業する(第14回)。在学中から建築科長鈴木禎次の松坂屋関係の設計手伝いをしていたらしい。卒業後は、東京市電気局工務課に勤務していたが、1923年、関東大震災が発生して、東京市は臨時建築局を設置することになり、局長に佐野利器(東京帝大明治36年卒、辰野金吾に続く当時の建築界のボス的存在)を迎えていた。小尾は、下級地方官吏技師であり、到底鈴木に学んだアーキテクトとしての腕を発揮できないため、当時中京地区の建築師組織が主催した住宅の懸賞設計にこつこつと応募し、わずかな賞金を得ていた。そうした中、1926年に、震災で焼失した庁舎を再建するための神奈川県庁舎懸賞設計競技に応募し、1等に当選した。
一等(賞金五千円)小尾嘉郎、二等一席(賞金三千円)相賀兼介、二等二席(賞金三千円)中村哲、三等一席(賞金二千円)土浦亀城、三等二席(賞金二千円)泰井武、三等三席(賞金二千円)大野功二
この6点の入選者のうち、小尾、中村(大正13年卒)、泰井(同)、大野(大正3年卒)の実に4名が名高工の卒業生であった。当選案は、五重塔をイメージしてデザインされた中央塔をもつ、いわゆる帝冠様式であり、実施設計では中央塔を多少低くして、ほぼ原案通りに現在ある姿で建てられた。審査委員長は佐野利器だった。
小尾は、この年10月に神奈川県に招かれ庁舎建築事務所に勤務することとなったが、どういう理由か2ケ月程で退職。その後1929年まで鈴木禎次が強くかかわる松坂屋建築部に勤務し、上野店新築工事の設計監理に従事、翌1930年から小尾建築工房を開設するが、世界的不況のためか満足な仕事や収入は得られなかった。1942年から日本住宅営団東京支所第三課長、戦後は、東京復興産業㈱建築部長を務めた後、1949年、小尾建築工務所を開設する。この頃の作品で確認される建物は、唯一甲府市丸の内の舞鶴城内にある恩賜林記念館(1953年)で、一種の帝冠様式で設計している。晩年は、小さな仕事しかしていなかったようで、1974年、享年76歳で永眠する。1933年に、小尾自身の設計で作られた小尾家の墓標のデザインも、明らかに神奈川県庁舎の塔を模したものであった。
秦井武は、1901年(明治34)、兵庫県加東郡河合村(現在の小野市)に二男として生まれる。県立小野中学(現、県立小野高校)を経て、小尾と入れ替わる形で1921年(大正10)名高工建築科に入学。この年、建築科長も鈴木禎次から土屋純平に代わり、鈴木は退官して一講師として務める(1927年まで)という状況であった。1924年第17回生として卒業後、発足したばかりの東京市臨時建築局に勤務、1926年、前述のように神奈川県庁舎懸賞設計競技に応募して三等二席に入選する。応募案は、古典主義と当時流行のセセッション風がミックスされたもので、この類の応募案は多かった。実は応募案386点の中で、大胆に日本趣味風を取り入れたのは小尾案だけである。
泰井は1927年6月に東京市を退職し、後年銀行建築の名手と呼ばれた西村好時(東京帝大明治45年卒)のいる第一銀行に勤務し、西村の独立とともに請われて西村事務所に移り、事務所・百貨店などを手がけていた。その折、1934年に行われた静岡県庁舎懸賞設計競技に応募した案が、小尾と同じく帝冠様式で一等当選している。当選案は、神奈川県庁舎のモチーフを踏襲しているのは誰の目にも明らかである。審査委員長は神奈川県庁舎と同じ佐野利器で、佐野の意向が選定に強く働いていたと考えれば、泰井の案は、あるいは狙い打ちであったかもしれない。実施設計は、審査委員の一人である浜松出身の中村與資平が担当したが、玄関廻りが変えられているほかは、ほぼ原案に沿って建てられている。泰井は、1944年に西村好時建築事務所を退職、1971年まで鹿島建設に勤務した後、片山建築事務所で軽易な監理業務を数年手伝うなどして引退した。鹿島建設時代以降、創作活動はしていないようだ。1997年(平成9)、96歳で永眠した。帝冠様式は、ともすれば国粋主義あるいはファシズムの建築といった否定的評価もなされるが、無論二人とも国粋主義者ではなく、母校で育まれた建築家精神をもって創作活動していた、ともに実直な建築技師であった。
泰井武の同期には、名古屋市営繕課勤務の藤井信武がおり、やはり帝冠様式と評される名古屋市庁舎(1930年設計開始、1933年竣工)の内装設計を担当しており、同課勤務の松山基軌(大正12年卒)が実施設計全体をとりまとめていた。同じく帝冠様式の愛知県庁舎(1935年着工、1938年竣工)では、渡辺仁(明治45年東京帝大卒)の基本設計に基づいて進められ、時の建築課長が酒井勝(大正2年卒)で、実施設計を担当したのは、愛知県営繕課の大西勉(大正5年卒)を主任技師として、技手は、砂本清(大正11年卒)・松山基軌・平木隆吉(大正13年卒)・藤井信武の他、昭和2年卒の黒川巳喜・尾鍋邦彦・土田幸三郎と、全員が名高工出身であった。しかし彼らは単なる建築技師ではなく、藤井信武が原スケッチを行なった松重閘門(1930年)や黒川巳喜・土田幸三郎が担当した愛知県信用組合連合会(現、愛知県庁大津橋分室、1933年)が、いずれも表現主義的なデザインで設計されるなど、建物の規模や用途に応じて多様な創作を行う、いわば官庁建築家としての自負をもって仕事をしていた。帝冠様式は、欧米諸国の官庁建築にもしばしば見られる偉容や威厳といった造形表現を、西洋化を離れて日本独自の様式として追求していった1つの帰結と評価すべきであろう。
伊藤鑛一は、1900年(明治33)三重県桑名市に生まれ、三重県立富田中学(現、四日市高校)を経て、名高工建築科を1922年(大正11)に卒業する(第15回)。卒業後、竹中工務店に入社、1924年に松坂屋臨時建築部に移り、次の事務所に転職するまで一貫して、鈴木禎次の設計する全国の松坂屋関係の建物の設計監理を担当している。1939年(昭和14)、鈴木禎次の指示に従い長谷部・竹腰建築事務所に入社。鈴木禎次が名古屋の鈴木建築事務所を閉鎖する前年のことであった。この頃は、戦争のため軍需関係の建築が優先される時代で、伊藤鑛一は工場や造船所などを設計していたという。終戦直前の1944年、長谷部・竹腰建築事務所は住友土地工務㈱に吸収され、伊藤鑛一は住友土地工務名古屋出張所の所長となる。戦後1950年、日建設計工務(現、日建設計)設立に際して、取締役兼名古屋事務所長となり、さらに1958年、経営手腕が認められて社長になる。1967年、67歳で日建設計工務を退職。この年に、名古屋経済界の主要企業からの出資を得て、名古屋で伊藤建築設計事務所を開設する。東海銀行本店(1961年)、中央相互銀行本店(1969年)など多数の作品があり、伊藤鑛一は1987年満87歳で永眠したが、残された事務所は、現在、名古屋有数の組織事務所として育っている。
黒川巳喜は、1905年(明治38)、愛知県蟹江町に生まれる。旧制東海中学校卒業後、名高工建築科に進み、1927年(昭和2)に卒業する(第20回)。卒業後、愛知県営繕課建築技手となり、前出の愛知県庁舎などのほか、旧昭和塾堂(1929年)や江川警察署(西警察署、1932年)などを担当する。愛知県庁舎では、正面広間や正面階段部分を担当している。江川警察署と愛知県信用組合連合会は、水準の高い設計技量を示す作品となっている。1940年には営繕課技師となり、1944年頃退職し民間企業に勤めた後、戦後の1946年に黒川建築事務所を開設した。氏の創作に対する情熱のDNAは、紀章・雅之(名工大昭和36年卒)・喜洋彦(名工大昭和42年卒)の各氏に受け継がれている。1994年(平成6)満88歳で永眠。
黒川巳喜は、鈴木禎次の影響を受けた最後の世代であった。鈴木禎次が退官した1921年(大正10)、鈴木に替わって設計教育を担うことになったのが、鈴木の厳しい薫陶を受けた鷹栖一英であった。鷹栖は、1909年(明治42)名高工を第2回生として卒業後、農商務省に入り、出張を命じられ渡米し、7年間滞在、その間コロンビア大に学んでいる。帰国後、母校に教授として迎えられ、1933年(昭和8)からは土屋純一に替わって建築科長を務めた後、1939年、土屋純一・佐藤鑑とともに名高工を去る。戦後はさらに名城大学に招かれて建設工学科の創設に尽力し、その教壇に倒れるまで終始後進の建築教育に力を注いだ。名高工教授在職中は、鈴木禎次の次世代として設計依頼があり、名古屋陶磁器会館(1933年)などの作品がある。
帝大卒の設計教育者
名高工の設計教育は、ここまで見てきたように、東京帝大卒の鈴木禎次に始まり、その薫陶を受けた卒業生が開花していき、東海地方を主体としながらも全国的に近代日本の建築創生に大きくかかわってきた。しかし鈴木禎次以外にも、名高工に赴任した帝大卒の設計教育者が、少なからず東海の地で建築創生にかかわっており、とくに土屋純一・武田五一の足跡を見逃すわけにはいかない。
名高工に赴任した順からみると、まず土屋純一は、新潟県西蒲原郡1900年(明治33年)東京帝大建築学科を卒業後、大学院へ進み、1901年伊東忠太とともに清国北京皇城建築の調査に大学から派遣された。1902年に、奈良県技師となり、奈良県地方教育会委員などを歴任し、1903年に古社寺建造物修理事務所技術部長として、法隆寺中門・東大寺大仏殿をはじめ多数の社寺の修繕工事を監督した。1907年に、名高工建築科講師として赴任、同年教授となった。1910年から3カ年にわたり英仏米へ留学。さらに、1921年(大正10年)名高工建築科長、1933年(昭和8年)から1939年まで、名高工校長を務め、前述のように1939年、65歳名高工を退官する。
土屋純一は、名高工で、日本建築史・西洋建築史・設計法・装飾学・建築材料を教え、城郭研究の研究で名を馳せているが、設計作品としては、名古屋市では、市能楽堂・新愛知新聞社・市庁舎など、直接・間接に参与せざるものはないといわれ、建築界の至宝とされた。校長退官後、名誉教授を授与された。趣味は、能楽・謡曲・囲碁・将棋・麻雀・撞球など万能家で、絵画・彫塑に関する興味も深く、温厚篤実、鷹揚な挙止動作で、強烈な個性の鈴木禎次に比し、静の人と評された
武田五一は、1872年(明治5年)、広島県深安郡福山町(現、福山市)に生まれる。1894年東京帝大学造家学科に入学、1897年に同学科を卒業。その後、大学院に進学し1899年には同大学助教授に就任した。1901年から約2年間は、図案学研究のため英独仏へ留学し、アール・ヌーヴォーを体得して帰国した。帰国後、京都高等工芸学校教授に着任。1918年(大正7年)から、第2代名高工校長に就任。校長在任中に、京都帝国大学工学部建築学科創設委員として同学科創設に尽力し、1920年に京都帝国大学教授に転任した。武田もまた、教育活動のかたわら設計活動を行い、数々の名建築を残した。とりわけ、京都を中心とする関西地方で活躍し「関西建築界の父」として知られる。主要作品としては、京都府記念図書館(1909年)・芝川邸(1912年)・山口県旧県庁舎および旧県会議事堂(1916年、ともに重要文化財)・京都帝国大学本館(1924年)など多数があるが、東海地方において設計や建築顧問にかかわった作品もまた多数ある。建築顧問としては名古屋市公会堂(1930年竣工)など、設計として名和昆虫研究所記念館(1907年)・同博物館(1919年)・春田正策邸(1924年)・旧加納町役場(1926年)・春田文化住宅(1928年・1932年)などがあり、東京から名古屋に移築された龍興寺客殿(旧藤山家住宅日本家、1932年、県指定文化財)も、失われた洋館とともに武田の設計である。また武田は、鹿苑寺金閣の修理を初めとして、平等院鳳凰堂の半解体修理などにもかかわっている。1934年からは、法隆寺国宝保存工事事務所所長も務めた。1938年、満65歳で永眠。
武田五一は、わずか2年半しか名高工に在職せず、得意とする設計教育分野に、職場上は校長の下となる建築科長として、帝大では先輩の鈴木禎次が存在していただけに、自身の設計手法をどれだけ学生に教育できたかわからない。しかし、コンドル-辰野金吾ラインの西洋歴史様式の正統を受け継いだ鈴木と異なり、辰野に反発して数奇屋建築の軽みに目を向け、その軽みをアール・ヌーヴォーに重ねて感じ、建築を視覚的なものとして享楽しようとする武田の作風は、武田の教育に接したはずの丹羽英二や城戸武男の住宅や料亭の秀作に、その片鱗がうかがえるように思われる
ところで、土屋純一の退官に関する新聞記事の標題には、大きく「高工校長更迭」とあり、本文には「勇退」と書かれるが、退官は決して本人の意思ではないであろう。土屋に替わって名高工校長に赴任したのは、元農林技師で農業気象学が専門の、工業教育に直接縁のない平田徳太郎であった。土屋・鷹栖両教授が退任した1939年頃、戦雲はますます濃くなり、そうした世相の反映か、構造力学・環境計画といった分野が強化され、設計教育専門の教官は皆無となり、アーキテクト教育は次第に薄められていくことになった。科目名の「設計」は名ばかりで、実態は「製図」となり、以後の卒業生は、建築家への道を志さんとすれば、教育を当てにせず、自らの資質と意欲によって拓かざるをえない苦難の道を歩むことになった。建築設計の道を名古屋高等工業学校の名称も、教育目標を戦力一点に集約すべく発令された文部省令により、1944年(昭和19)名古屋工業専門学校(名工専と略称)と改称された(昭和24年に新制「名古屋工業大学」となるまで)。
名高工卒の研究者たち
華々しくスタートした名高工のアーキテクト教育は、以上みてきたように、鈴木禎次の教授退官と講師退任によって減速・停滞し、土屋純一・鷹栖一英の退官によって停止した。
一方、鈴木禎次が退官しアーキテクト教育が薄まる1921年(大正10)頃からの卒業生の中からは、建築設計の分野ではなく、研究者として全国に名を馳せる業績をなす人物が輩出してくる。しかもその研究分野は、建築史の分野が大半である。鈴木禎次が退官した後の教官陣容をみると、建築史研究で全国に名を知られていた土屋純一教授が最も年上である。
将来の動向を考える際、学生によっては、新任の鷹栖教授の設計教育よりも、土屋教授の熟達した建築史学のほうがより魅力に感じられたからであろうか。研究者・教育者として母校の教官になった名高工卒の人物としては、建築史分野の城戸久(昭和4年第22回卒)と建築環境分野の宮野秋彦(昭19年第38回卒)が著名であるが、ここでは、母校を卒業し、むしろ母校以外で研究・教育の大きな足跡を残した人物を挙げておきたい。
千々岩助太郎は、1897年(明治30)佐賀県に生まれる。九州鉄道局教習所電信科、東京都私立正則中学校を経て、名高工建築科に入学、伊藤鑛一と同期の第15回生として1922年(大正11)卒業。卒業後、広島・宮崎・名古屋の工業(工芸)学校教諭を経て、1925年から1947年(昭和22)まで台湾の各学校に赴任。帰国後は、熊本大学・九州産業大学・大分工業大学・東和大学(1982年退職)に勤務。この間、1962年には、学位論文「台湾高砂族住家の研究 主論文第一部」(九州大学)により工学博士を授与さる。
専門は建築史であるが、とりわけ台湾赴任時代に調査した膨大な資料を元とした台湾高砂族住家についての一連の研究は、現在ではその大半が失われている当時の原住民住居を記録したほとんど唯一の研究として貴重である。これらに関する著書・論文も多数著されるが、遺された野帳などの資料には未発表資料が多数含まれ、大きく変化しつつあった台湾原住民の生活の一断面を示す貴重な記録として、近年再考するべく注目されている。千々岩は、母校出身としての建築史研究の先駆者であった。日本建築学会では、四国支部長・九州支部長を務めている。1991年(平成3)94歳で永眠。
浅野清は、1905年(明治38)、名古屋市に生まれる。1926年(大正15)名高工建築科を第19回生として卒業後、1934年(昭和9)~1948年(昭和23)法隆寺国宝保存工事事務所に技手・所長として勤務。1952年より教育・研究職に携わることとなり、奈良学芸大学・大阪市立大学・大阪工業大学を経て、1973年から愛知工業大学に勤務する。この間、1951年に「上代建築の復原的研究」により日本建築学会賞受賞、1952年、学位論文「奈良時代を中心とする日本建築遺構の復原的研究」(京都大学)により工学博士、さらに1985年、「建築遺構ならびに遺跡にたいする実証的研究方法の確立と復原的研究による日本建築史学および関連史学への貢献」により日本建築学会大賞を受賞する。
専門は、特に日本建築史で、それまで誰も行なっていなかった建築遺跡発掘調査をともなう建物復原調査法の開発、古代建築技法の解明など、日本建築史学における偉大な業績を残した。著書・論文も極めて多数に及び、法隆寺の大講堂・東院伝法堂・夢殿などの復原的研究の成果は、今日の「日本建築史」テキストに確固と反映されている。晩年には、日本建築の源流を求めて中国古建築に強く関わるようになっていた。1991年(平成3)86歳で永眠。
横山秀哉は、1903年(明治36)、愛知県の一禅寺に生まれる。1923年(大正12年)曹洞宗第三中学林(現愛知高等学校)卒業。1924年より旭尋常高等小学校代用教員を務めながら名高工建築科に入学し、第21回生として1928年(昭和3)卒業。卒業後、営繕管財局に製図掛・技手として勤務。1937年、仙台高等工業学校(後の東北大学工学部)講師嘱託として赴任し、翌年助教授となり、1943年同校教授。戦後の1950年、東北大学分校助教授兼東北大学仙台工業専門学校教授、翌年、東北大学工学部建築工学科勤務となる。1967年、東北大学を定年により退職し、東北工業大学教授に着任。1974年より聖和学園短期大学教授として勤務した。
専門は、日本建築史。民家などの建築文化財の調査・研究も手掛けるが、生涯を通じて一貫して取り組んだのは禅宗寺院建築(特に曹洞宗)の総合的研究で、研究成果を反映して設計した実作品も多数ある。その集大成の著作として、東北大学退官に当たって著した『禅の建築』(1967年、彰国社)があり、この種の研究に対して不可欠の名著となっている。
黒田曻義は、1914年(大正3)静岡県磐田郡(現 磐田市)見附町に生まれる。静岡県立見附中学(現 磐田南高校)を経て、名高工建築科に入学し、第28回生として1935年(昭和10) 3月同校を卒業。奇しくも黒田が卒業設計(DIPLOMA)を提出した翌日の3月7日午前2時40分頃、旧本館(教員室、校長室、参考図書室、重要図書室、研究室、教務室、建築・土木科教室、製図室など合計二十余室、四百余坪、全校舎の五分の一)が焼失し、DIPLOMAもろとも灰燼に帰した。その折の日記とアルバムが氏の遺品として伝わる。その日記の3月7日の項には、次のように記される。
「三月七日 これが夢であるなら早く覚めてくれ・・ こんな悲惨な現実があっていいのか?僕はその詳細を考へ出す元気すらない。併し母校が焼けてしまったと云ふ目前の事実は再び打ち消すよしもないのだ。それも三月間の努力の結晶のDEPLOMAを提出した晩に、しかもそのDEPLOMAもだ。(後略)」(原文のまま)
この頃の設計教育の中心は鷹栖一英であるが、卒業設計の厳しさは、鈴木禎次退官後も、なお続いていたことが想像できる。
卒業後は、奈良県庁社寺課(現在の奈良文化財研究所・樫原考古学研究所につながる)に就職し、古建築の調査・研究に従事する。この間、名高工関係者としては、土屋純一校長を敬い、法隆寺工事事務所にいた先輩の浅野清と交流し、同じく先輩の城戸久とは特に親近な間柄であった。29歳で『大和の古塔』を出版、30歳のときに遺稿となった『春日神社建築史論』を稿了する。
現代的にいえば建築史家の道を歩んだ氏は、研究者としての将来が大いに期待されており、母校に帰そうとする動きもあったが、1944年(昭和19)に応召、翌年フィリピンで戦死する(満31歳)。
井上充夫は、1918年(大正7)、京都府舞鶴市に生まれる。京都府立舞鶴中学校を経て、名高工建築科に入学し、1939年(昭和14)3月、第32回生として卒業。さらに進学して、1942年9月に東京工業大学建築学科卒業。日本発送電㈱総務部建築課に勤務し、その後、ハルビン工業大学建築科講師、大阪府立今宮工業学校勤務を経た後、1949年横浜国立大学工学部に講師として赴任し、助教授を経て、1966年同大学教授となる。この間、1962年、学位論文「日本上代建築における空間の研究」(東京工業大学)により工学博士、同年5月学位論文により日本建築学会賞を受賞。1984年横浜国立大学を停年退官。
専門は、建築史・建築様式・建築芸術など、多岐に及ぶ。建築史も、日本・西洋・東洋を問わず広く研究し、早くも35歳のときに『建築史(建築教程新書)』(1953年、理工図書)を著す。常に、建築空間の歴史的展開と美的意味について探求する視座をもち、その集大成的な著書として『建築美論の歩み』(1991年、鹿島出版会)がある。2002年(平成14)84歳で永眠。
以上、名古屋工業大学建築学科の草創期、すなわち名高工と名工専の時代のとくに教育的状況を、輩出した著名な建築家や研究者の足跡にふれながら、歴史的に顧みた。その歴史が、いかに紆余曲折しながら、世相を反映しながら変遷していったかがうかがえよう。教育の内容が、卒業生たちの進路に如何に影響を与えるのかを、改めて感じ入る。
鈴木禎次・土屋純一・鷹栖一英の退官によって、減速・停滞・停止した設計教育だが、そのまま停止したわけではない。戦後、新制の名古屋工業大学となって、徐々に加速していき、現在は、他学からも高く評価される、大変望ましい設計教育に至っている。紆余曲折を経て。現在の学科名称は、名古屋工業大学工学部建築・デザイン分野。次の100年は、いかに変容しているのであろうか。期待したい。
名古屋工業大学 名誉教授 河田克博